カテゴリー別アーカイブ: 日常の出来事

私論「海外映画ロケ誘致計画書」

目次:

  1. 誘致の目的の明確化:なぜ国策としての誘致なのか?
  2. 日本のロケ誘致に関する己の問題点を知ることから始める:なぜ日本に来ないか?
  3. 日本の誘致の可能性: 日本の取り組むべき施策を考える。

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映画と著作権:「その映画は本当にあなたのものですか?」

「その映画は本当にあなたのものですか?」「証拠は?」

自分で創ったものが無断使用され、しかもその違反者は明らかに自分の物でないものを知りながら、自分の権利を主張されたらどうすればいいのか?

著作権法は国際規模で認められるが、いかがわしい法律解釈を利用しモラルに反した違法使用が法的に認められてしまう現状も存在する。

これはちょっとした個人体験で痛感した。

前回映画を製作した際、アメリカ人のクルーを雇った。彼は契約書を交わし、全ての報酬を支払った。ある日、映画公開の8ヶ月前、インターネットの動画投稿サイトにあきらかに映画撮影時の原盤映像が使用された複製物があるのを発見した。これは撮影中、もしくはその後に映像を持ち出し複製された動かぬ証拠でもあった。

この事件の数週間前には彼のパートナーでもある監督が同様の違反を犯したのをうけ、クルー全体に「いいだろうではなく、プロダクションの許可を必ず伺う様にして欲しい。できるだけプロダクションはあなたのキャリアのために協力はするから」と注意勧告をだしたばかりのできごとでもあった。

動画投稿サイトはすぐに著作権違反通告に応じ動画を削除したが、そのクルーは「日本から法的措置ができないだろう」とばかりに違反通告を無視し、動画使用を続けた。さらに、第三者へその違法映像を提供し、その第三者も現在まで違法動画と知りながら使用を続けてる。

第三者に電話抗議をした後おどろくべきことを聞かされる。「その映画は本当にあなたのものか?」「アメリカ著作権局の登録書はあるのか?」こちらはあるだけの証明をおくったが、すべて無視された。では「あなたのウェブサイトのコンテンツの著作権がクリアされた証明は出せるのか?」と聞くと、「著作権法では証明されるまでこの映像は使用し続けてもいいことになる」

なんとその後映像を盗んだ本人からも電話があり、同様のことを聞いた。「俺は何も盗んでいない」「これはお前の映画か?」「私には法的な権利があり使用している」。本人はもちろん盗んだことを知っているのにも関わらず権利を争う姿勢を見せた時にはとうに憤慨を通り越していた。

今回の事件は実際にプロダクションにも実害も生じる危険がある。例えば、俳優の出演許諾は映画および映画のプロモーションにのみ許諾されている。一見勘違いされがちだが、俳優は自らのイメージ、すなわち肖像権を常に所有しており、プロダクションはその肖像の使用を許諾されているだけで、肖像権そのものを所有しているわけではない。映画関係以外、すなわち許諾事項以外にむやみやたらに自らをイメージを使用された場合、それは俳優の権利の侵害にあたり、もし俳優がクレームを申し上げた場合、プロダクションはその責任を追及される立場にある。俳優の正当な肖像権を守る上でも、許諾なしで映像を盗み、無断使用したことは決して許されるべき問題ではない。

厳密には著作権法において、映画を製作した際、その著作権の保持には登録申請は必要ではない。著作権は映像を創った時点で自動的に製作者に帰属する。ただ、登録をしなくては公的に証明するには至らないと解釈する者もでてくる。

例え、それが商業的に発売され、世の中のだれもがその著作権の存在を認識していても、法的の証明となると「抜け穴」が存在する。言い換えれば、著作権違反者は「自分が著作権が有し法的権利で使用している」と証明せずとも、「著作権のその所在を明確に示されるまで」権利の所在をとぼけ「無実違反」(Innocent Infringement)として使用を許してしまう。例え、それが盗まれた映像でも同じである。

世の中には著作権法の解釈を駆使し、人の制作物を無断使用し続ける輩が存在している。それが、異国での問題ともなると、その訴訟の困難から泣き寝入りをしなければならない状態になるかもしれない。

そこで、少々馬鹿げているが結論は「それが本当に自分の物だ。違法使用をやめろ」と証明するためには、やはり著作登録が必要になる。

日本の文化庁にもあるが手続きが困難である。しかし、アメリカの著作権局では比較的安価で簡単にオンライン登録を行なうことができる。

オンライン登録では35ドルで、オンライン登録、また著作物素材もオンラインで著作権局へ送ることができる。手続き終了後、そして数日後その証明書が自宅に送られてくる。この手続きを行なっておけば、名実共にその作品が自分の著作物として法的に主張することができる。

これは例えば自分が脚本を書いた場合で第三者へ見せる前にも送っておくと、その後万一トラブルに陥っても法的に証明することができる。

映画の場合はフォームに沿ってオンライン登録し、その後インターネットを通して映像を送るか、もしくはDVDを送れば登録が完了する。

もし、自分の著作物がインターネット上に無断使用されていることを発見し、そのサイトを止めたい場合、サーバーがアメリカに存在する場合はデジタルミレニアム著作権法(DMCA)に基づき、サーバーに直接サイト停止のクレームを付けることができる。これはGoogleにもサンプルがあるのでみてもらいたい。 (*注:これはグーグルがサーバーの場合のサンプルであり、サーバーが他社の保有の場合は別の場所へクレームをつける必要がある。ただ、もしクレーム側が虚偽の申告をしてサーバーが停止した場合には、多額の損害賠償が請求された判例もあるので確実に自分のものである証明がある時のみ行なうのが適正)

著作権は決して安易な問題ではない。先日、ハリウッドレポーターでエクスペンダブルズのプロデューサーがUS Copyright Groupに依頼し、違法ダウンロードの一斉訴追を行なったと報道された。これは、違法業者だけでなく、違法と知りつつダウンロードを行なったものも犯罪に問われる。今回の訴追にはダウンロードを行なった個人も特定し、連邦裁判所へ訴えたもので、違反者は750ドルから3万ドルの罰金が科せられるとみられる。

これから映画のデジタル化はさらに加速する。ビデオオンデマンドやオンライン配信が、いまに映画を消費者に伝える主要ディストリビューション方法となってくる。言い換えれば観る側のモラルだけでなく、著作権法の意識がより一層必要になる社会でもある。

著作者の権利に尊重を持って映画やコンテンツを楽しむ様に願いたい。

ホテルチェルシー:イーリーホラー映画祭にて上映

映画ホテルチェルシーが10月7日から10日にペンシルバニア州のパラマウントシアターで行われるイーリーホラー映画祭に上映されることになりました。映画祭の特別ゲストにはアメリカインディ映画で大成功を収めた「クラークス」とハリウッドによるその続編「クラークス2」の主演ブライアン・オハロランさんが登場するとのこと。

ブライアンさんとは以前同じくペンシルバニアで撮影した映画「Brutal Massacre: A Comedy」というホラー映画制作の舞台裏を描いたコメディ映画で共演した。その後のニューヨークでのプレミア時でも再会した。ブライアンさんはとても気さくで、共演者だれとでもフレンドリーだった。

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日本メディアにおける女性への放送倫理

昨今、日本の芸能、メディアの”女性の扱い”の文化レベルと放送倫理が著しく低いように感じてやまない。別に欧米かぶれのフェミニズムや女性の味方を気取るつもりはないが、最近の日本のメディアでは目に余るような表現が蔓延し、そしてそれを社会が平然と容認する傾向にあるように感じる。日本は歴史的にこれが「あり」と受け入れられる社会かもしれないが、女性一人の魅力や価値基準、男性への性的オブジェクトのみで計られ、それがあたかも社会標準にすべきべかのごとく、メディアに氾濫する様は異常に思える。

多くのテレビ番組では女性が著しく非知的であったり、年齢や容姿をを比較し人間的価値の優劣をつけられたり、特定の女性を蔑むような発言が飛び交いそれを笑いにする。もちろん出演者同士はそれを”ネタ”とし番組を形成しているわけだが、こういった表現がどこかしこにも氾濫しているように見受けられる。公共のメディアに流れる以上、製作者や出演者の当人達だけの”ネタ”としては決して済まされない責任が生じる。

こういった女性の性的オブジェクト化の表現を公共に流す場合、それが与える社会影響も考慮する必要がある。おそらくこれは法的にも定められているはずである。メディアは大衆に大きな影響を与え、”芸能業界”や”メディア業界”の価値観が、大衆の価値観として浸透してしまうことを考える必要がある。学校での”いじめ”の助長や、容姿のみで判断される価値基準により、女性に「自分に価値がないのでは?」という誤った認識を助長させるとや、自尊心を失わせることにつながると思う。「自分は自分であることが美しい」というメッセージ、そしてそれを否定する価値観は大きな間違いである事をなぜどこも発信しようとしないのか?

「アメリカではこうなんだ」のような外国かぶれの話になってしまうが、アメリカでは若い女性の整形が蔓延したことから、自ら整形手術を経験した女優などが、メディアの女性像が全ての女性像の価値観ではないことを啓発を促すことも多く見られる。また、体重を過度に気にし摂食障害になる女性に対して”自然な女性”の美しさを、自身の摂食障害の体験から解くモデルなどもいる。こういったように多くのメディアが女性そのものの価値を大衆に発信されている。一方、日本では全くこれが見られず、いつ何を見てもオブジェクト化された女性が溢れている。

これはあくまでも個人的な考察だが、8年間日本を離れ帰ってきた最初に感じたことは、メディアに現れる若い女性がまるで流行のように”同じような目””同じような鼻””同じような顔”になっている印象を受けた。もちろん整形手術とうは個人の望む自由意思であるが、もしメスを入れる理由の一つに、メディアであおられている”美しさの価値基準”を自分に感じられないことによる自尊心の低下に由来するのであれば、メディアの価値基準は決して全てではないことを、社会に啓発する必要があると思う。

話は少し変わるが、以前世界陸上が行なわれた時、その独占放送権をもつテレビ局のお笑い芸人とアナウンサーが司会をする報道番組において、出場する選手の「美女特集」なるものを放送していた。そこには白人系の跳躍種目の選手数人と最後に黒人の砲丸投げの選手を並べ、最後に黒人選手の容姿を笑いにしていた。スポーツ報道においても、競技選手が単なる性的オブジェクトとしてしか扱われていなかった。他にも別の報道番組のスポーツニュースでは、ある競技の下位に沈んだ”美人選手”の演技を延々と報道した後、優勝した別の日本人選手はテロップのみなどもあった。

海外なら真っ先に女性団体の抗議や場合によっては訴訟の対象となり、また放送倫理においても大問題となる。アメリカでは特に性差別や人種差別には非常に敏感で、法律でも厳しき定められ、社会全体でもこのような問題がないよう気をつけている。もちろん、人種差別、性差別は残っている社会ではあるが、少なくとも放送倫理上は高い基準設けられている。

昨今オリンピック誘致が騒がれ「日本の未来のために」「日本のこどもたちにチカラを」などのキャッチフレーズが叫ばれているが、女性に対して,スポーツ協議に対して侮蔑するようなこのような放送がプライムタイムで平気で流れている日本、日頃から何をもって未来の子供たちへメッセージを送ろうとしているのかとはなはだ疑問に感じる。

また別に気になる点は、メディアが扱う性的オブジェクト化された女性像とそれの低年齢化である。日本のメディアでは未成年の女性を健全にない性的オブジェクトとして売り出したり、表現が溢れているように思える。これは性的描写に限らず、精神的な男性へのオブジェクト化も含まれる。「アイドル商品」、「疑似恋愛」を提供することが商売なのかもしれないが、これもまた度が過ぎているように思える。しかし残念ながら、今の”日本の芸能”においての女性の活躍の場のほとんどは、このような風潮のメディアにしかないのが現状である。

さらに女性タレントの恋愛模様で一喜一憂するメディア、それに対しそれが罪であるかのように謝罪対応する。これもまたそのタレントの「芸能」を売り出すのではなく、「オブジェクト化された商品」として売り出すことの弊害に思える。海外でも恋愛ネタなどスキャンダルは大衆の関心を引くが、道義上問題のない恋愛についてタレントが謝罪したりすることはまずない。もちろん欧米の価値観を全て崇拝すればいいものでもなく、”日本の古風な価値観”も尊い。しかしそれ以上に、「女性の芸能」を評価する社会基準が、「女性の性的オブジェクト化」のみでしか評価できない日本人男性の度量、そしてそれが社会風潮を形成しているように思える。

私事では、ニューヨークにいた時、女性への家庭内暴力を題材にしたスペイン人監督の短編映画に出演したことがある。ニューヨークとマドリードで上映が行われ、出席したマドリードでのプレミア上映の際には、歌手のクリスティーナ・デル・バレさんや女性問題に取り組んでいる多くの著名人と会う事ができた。テレビカメラや新聞などスペインの多くのメディアもこの上映を大きく取り上げた。そうした体験から、こうした国では日本と比べ社会全体が”女性問題”に大きな関心を持っていたように感じた。

日本のエンタテイメントの女性の扱いで性的オブジェクト化の度が過ぎる点、度量のない男性マーケットの為に女性が本当に苦労しているとづくづく思う。もちろん女性自身もそれを受け入れないよう強く変わって行かないいけない。ただ影響力のあるエンタテイメントは社会に対する責任も果たす必要がある。今や、日本での「女性」の価値の基準は、「メディアの価値基準」が全てのようになってしまっている。女性の芸能における活躍の場の選択肢のなさは、エンターテイメントが低俗化かつ退屈なものになった原因の一つでもあると思う。それ以上に社会への影響を考えると、倫理的にも非常に危険な水域に達しているように思える。社会全体も見る側の倫理、作る側の放送倫理を高め、その両方の側面から「現状のメディアにおける女性の扱いの問題」を考えるべきだと思う。