松井久子監督 映画「レオニー」鑑賞:レオニー・ギルモアに見る映画の中のフェミニズム

(c) Leonie Partners LLC 2010

本日、角川映画試写室にて松井久子監督「レオニー」を鑑賞する。20世紀初頭、遠い異国の地「日本」で女を生きたアメリカ人女性で彫刻家イサムノグチの母「レオニー・ギルモア」の半生を描いた作品である。

観賞後様々なことが感情に残る中、映画が伝えるテーマとして残った言葉は「女性」であった。それは同時に主人公レオニーを通して強いフェミニズムを感じた。

女性プロタゴニスト映画のフェミニズムはしばしば女性平等あるいは反男尊女卑、戦う強い女性の象徴と誤解されるが、フェミニズムとは決して単純に男女のプロタゴニストの立場を逆転させたものや、「去勢されたMasculinity」的男性描写ではない。本作品から感じる「女性」また「フェミニズム」とは女性が女性であるまま、女性が女性として生きる様である。本映画のプロタゴニスト、レオニー・ギルモアは、過酷な時代背景、異国での社会環境の中、男性や社会概念の要求する「女性像」ではなく、まっすぐに女性としての運命を生きぬいた女性として描かれている。

女性が女性として生き抜く様とはどういうことか? レオニーは大学で学んだ後、ニューヨークで出会った日本人青年ヨネ・ノグチと詩や文学で愛を語り、恋に落ち、やがて息子イサムを身ごもる。そして戦争など様々な時代背景が運命を左右する中、アメリカに残された幼子と共に言葉も通じない異国の地「日本」への移住を決意する。ここでは愛に生きる女性、そして母親としての女性の姿が見て取れる。

しかし移住後、レオニーを待ち受けていたのは過酷な運命であった。愛のため、そして子のために選択した日本移住も、男性の所有物であるかのような女性であることが求められる社会、さらにこの社会概念で生きる日本の女性からも男性が求める「女性」であることを促される社会に直面する。最後には、別の家庭を持つという夫の裏切りに遭う。しかし、ここで彼女が選んだ道は女性が女性であるままに独立して生きる姿であり母の姿であった。印象に残るっている場面がある。家を出る事を決意し椅子を運び出している様子を見たヨネがそれを止めるよう命令するが、レオニーがその指示を振り払い椅子の運び出させる指示を出すシーンである。このシーンはレオニーが女性として独立を選択した瞬間にも見てとれた。

男性を愛することも女性の姿である。レオニーは愛にもまっすぐに生きた女性でもあった。レオニーは日本にきて第二子アイリスを身ごもる。父親の名前は明かされないが、レオニーは、「真摯で私の必要な時にそばにいてくれた男を愛した」と語る。ヨネからは「Slut」(ふしだらな女)と言う言葉が投げかけられるが、レオニーは女性であり、彼の妻ではなかった。独立した女性が人を愛することも女性が女性であるままの生き方として表現されている。またレオニーの人を愛する観念を象徴する描写に、レオニーが帰国を決意し桜の木々のたもとでヨネと対峙するシーンがある。桜をバックに一度は愛し合い、子供を授かった男女が向き合うワンカットには、決して切れることのない愛情が表現されているようにも見えた。しかし、次の瞬間、レオニーは振り向きその愛情を断つかのようにヨネに背を向け別れ、これが二人にとっての永遠の別れとなる。このシーンの直後は、このカットが私の心に強く残った。しかし、後半に進むことでこの意味を理解する。レオニーの脳裏にもこのシーンの記憶が焼き付いて離れなかったと分かる。その後、長い年月を経て日本へ渡る息子イサムに託すヨネへの言葉の中に、レオニーの愛にまっすぐに向き合う女性像が如実に感じる事ができる。このシーンは私にとって一番印象深いものであった。

映画の中のレオニー・ギルモアは、決して困難や悲運と戦うスーパーヒーロー(ヒロイン)として描かれていはいない。女性を形成する知性を持ち、情熱的に人を愛する女性、母、女性としての運命と一生を全うする姿として描かれている。女性が女性であるままの形のフェミニズムがこの映画には込められていると感じた。

*******あとがき*********

私はこの映画の企画段階であった2005年の6月、当時ニューヨークのジャパンソサエティにおける「折り梅」の上映でいらしていた松井監督とお会いした経緯がある。当時から計算しても5年の月日が流れている。実際に監督はこの映画に7年の月日を費やしているという。この映画鑑賞後、監督がなぜこの映画に絶え間ない情熱を注いで来た意味が分かるような気がし、時折映画の中のレオニーの姿が松井監督の生き方にオーバーラップするようにも感じた。

また映画製作者として、この歴史的スケールの大きな作品を生み出すまでの多大な困難、苦労は容易に察することができる。世界の映画社会で女性監督が商業映画を生み出すという意味、製作、監督、脚本の3足のわらじを履いての映画製作、スタジオ製作ではないインディペンデント映画のファイナンスの問題とそのリスク。また海外合作映画においては、言語の問題、契約問題、異国とのパートナーシップ、国柄による人間関係の違い、クリエイティブな議論、キャストのクルーの統率と途方もない過程と苦労がある。この作品の2時間12分裏にはこういった経緯があること理解している。しかし、監督は7年の月日を経てこの映画を完成し、世に送り出した。日本よりこの映画が発信されたことは大きな賞賛に値し、偉業ともいえる。

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「松井久子監督 映画「レオニー」鑑賞:レオニー・ギルモアに見る映画の中のフェミニズム」への2件のフィードバック

  1. ニューヨークのジャパンソサエティでの「折り梅」上映会。
    私もご縁があって参りました。観光客のノリでしたが。
    どこかですれ違っていたかもしれませんね。
    あの日から、いやもっと前からですが
    監督の思いは少しもぶれることなく、今こうして映画完成の時を迎えたのだと思うと
    松井監督への尊敬の念は深まるばかりです。

    ヒロ・マスダ様の発信にいちいちうなずいております。

    このような発信が日本中に世界中に広まっていきますよう願っています。

    札幌からも発信します。
    ご注目ください。

  2.  とても素晴らしい感動,感動でした。私の生きてきた気持ちが,映画のすべての場面でオーバーラップしていました。アメリカ,日本。メイン州,ニューヨーク州,モエレ沼公園等々。すべてです。妻の名前は,ユキエ(ゆき絵・YUKIE,愛称・ユキ)です。ネバーエンディングストーリーです。監督が7年以上,この映画に込めたお気持ちは,少なくとも,角川・新宿で初回を観た観客に素敵な気持ち,一途な想いが伝わってくる内容でした。アカデミー賞を総なめにしてください。仮に,取れなかったら,この映画を変人扱いするアカデミー賞をみんなで笑い飛ばしましょうね!

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